裸足100km〜マメのはなし〜
裸足ランにマメは付き物か、生涯の汚点なのか。
・裸足ランナーの足裏の美しさは走りの美しさでもある
・「足裏の2人の先生」の教えに忠実に走れば足裏に傷はできない
・裸足ランにおける足裏のマメは走りの悪癖の表れで、マメの場所で原因が特定できる
今回の裸足100kmは路面が陸上トラックのウレタン舗装であり足裏の肌触りはソフト。
適度な弾力性、クッション性もあり、シューズのソールが地面に張り付いている様。
小石もなければ、ガレた硬いところもない。
基本的な裸足の走りができれば足裏にマメができるはずがない。
しかし、マメができてリタイアしたランナーが少なからずいた。
「スピードを落としたらマメができた」という話を複数聞いている。
これはなかなか興味深いところで、普通足裏が持たないのはスピードを出しすぎていると捉えられがちだが、少なくともランナー自身は真逆の実感を持っている。
スピードに乗れているときは足裏の負担の少ないいい走りができていることが多く、
問題はスピードに乗れなくなったときに起きるし、
ゆっくりのスピードに「乗れない」ことだったりする。
自分も今回想定外の血マメが久しぶりにできた。
30km地点で右足の母趾の外則にでき始め、50km地点では左足の母趾と第二趾の間にできた。
足趾の血マメは足趾が上がっていなかったというよりは、左回りの周回コース由来の遠心力から外足になる右足趾に踏ん張りの要素が入ったことによると考えた。
趾間のマメは意味がわからない。ワラーチ等の鼻緒のある履物でできる部位であるが、唯一考えられるのは、足裏の皮膚が軟弱化していたことであった。
レース前、戦略的にトレーニング量を減らすテーパリングをしっかり行った。
2週前から開始し、4日間の完全休足をしたが、いくら陸上トラックというラグジュアリーなサーフェイスだからといって、足裏の皮膚の長い休息は不要、有害であったとレース後感じた。
裸足ランのレース前のテーパリングは筋肉と皮膚とで分けて考えるべき。
どちらのテーパリングが必要なのか。
同時同程度がいいのか。
分けて考えるべきか。
皮膚にダメージがない場合は、原始人の日常程度の裸足刺激は毎日入力し続けるべき。
— man@11/22つくば (@man10000) 2015, 11月 9
皮膚、皮下組織は裸足の入力がなければ、想像以上のスピードで軟弱化してしまうのが、足裏の皮膚に限らない人間の生理現象。
— man@11/22つくば (@man10000) 2015, 11月 9
血マメは一見痛々しいが、走っている分には違和感ぐらいで、破れて血が流れ出てしまえばまた普通に走れる。過去にも同様の血マメをつくりなが走ったことは何度かあるが、走っているうちに破けてとくに問題なく走れた。またマメができたという反応を見てフォームを修正する利点もある。
血マメができてこんなことをいうのも負け惜しみめいて言いにくいが、
裸足ランナーの足裏に対して過剰な期待を注いだり、過剰に意識をもったりするのはもうそろそろやめてもいい気がしている。
1951年、ボストンマラソンで地下足袋履いて優勝した田中茂樹がゴール後記者の前で地下足袋を脱がされて足の指が2本しかないかどうか確認されたことと同じ見世物小屋や隠し芸の「タネも仕掛けもありません」的な陳腐なものを感じてしまうのは私だけだろうか。
http://goyaku.blog45.fc2.com/blog-entry-629.html
シューズランナーの勝者に、裸足になって足裏を見せろと強要はしないのにもかかわらず、裸足ランナーだけフィニッシュ後、足裏を検品され、きれいなら賞賛され、傷だらけならこきおろされるというのはいかがなものか。シューズランナーの死んだ黒い爪はなんのお咎めもないというのに。
シューズを履いていても100km走れば足はなかなか無事ではいられない。裸足ランナーばかりに「身の潔白」を強要するのは、いたずらに裸足ランニングのハードルを上げることにもつながる。
もちろん、無傷で走ることは大切なことにかわりはない。
しかし潔癖になりすぎるあまり、
100km裸足チャレンジの一歩を踏み出せなかったランナーも多いだろう。
裸足ランナーにもマメを作ったり、失敗する自由がある。
もっと自由に裸足をたのしもう。