「ナンバ走り」論考①

結論、「ナンバ」とは、
動物的合理性に基づいた動作の一要素、一部分であり
全体ではない。
日本特有のものであるとするのは
「神話」である。
古今東西どこにでもある、
人間が文明化される前の野生、自然の動きの一要素に過ぎない。
ナンバは日本古来からある言葉ではあるが、
その意味するところが
文明化されてしまった現代人によって近年恣意的に解釈、使用されてきている言葉である。
そもそも言葉で何かを表現するということの限界
どうしても本質には一定距離までにしか近づくことはできず、
かならずそこに生じてしまう誤謬は不可避であるという大前提がある。
言葉で人間の微細な動き姿勢を表現する限界は、
たえず動作を伝授する行為の中で目の前に立ちはだかり続け、
逃げて前には進めない。
ナンバとは同じ側の手足が同時に出る歩き方走り方だ。
「一軸ナンバ」の誕生 byマンサンメソッドnext - 裸足とワラーチの日々
4年前のポストで私はナンバをこう表現しているが、
わかりやすく説明するには便利だが、
誤解させて本質を分からなくさせるためにも便利な、
非常に問題を孕んだ一般化してしまった説明でもある。
4年前、他に言葉を持たなかったのだ。
今、4年間のはだしの実践と伝授の活動から
自分自身の足裏を通して、
ナンバの実体をあらわす精度の高い表現が出てきたので、
改めてここに書き残しておきたい。
ウサインボルトを筆頭に陸上短距離で頭抜けた記録を打ち立てた選手の中には
いわゆる「ナンバ」の動きをしている選手は多い
しかし
側対歩(左前-左後、右前-右後と、同じ側の前後の肢が、それぞれ1組ずつ地面に着いたり、離れたりする歩法)的な解釈でナンバを考えてしまうと
手足や腕脚の動きだけでナンバか否かを判断する尺度をもちいることになる。
側対歩的にナンバで歩く、ゆっくり走る人は少なからず存在するが、
疾走速度で走る現代人は皆無であるという判断に至る。
そしてボルトの動きのナンバに気がつけなくなるのだ。
一定速度を越えると、ナンバの条件である「同側型動作」の要件を満たさず、 左右が交差する西洋的な動きに変化する。
「一軸ナンバ」の誕生 byマンサンメソッドnext - 裸足とワラーチの日々
自らが体感体現する動きがナンバではないと認識して、
わざわざ「一軸ナンバ」を造語して差別化していた4年前の私は
まさにこの典型例だった。
その結果、
斜対歩(左前-右後、右前-左後と対角線に結ばれた2本の肢がそれぞれ1組ずつ地面に着いたり、離れたりする歩法)
普通の歩き走りと判断してしまうことになる。
ボルトの動きをナンバだと理解できるためには、
この「ナンバ概念」の呪縛から解かれる必要がある。
実は手足が同じ向きに動かなくても「ナンバ」であることは可能なのだ。
極論すれば四肢を失っていたとしてもナンバであることは可能なのだ。
ナンバか否かの判断の基準は、
骨盤と胸郭(鎖骨・肩甲骨)とで形成される、
体内の「井桁」構造の同側性もしくは斜対性によるのである。
そしてこの井桁のダイナミズムを
線(1次元)でとらえるか
面①矢状面(2次元)でとらえるか、
面②全額面(2次元)でとらえるか
立体・流体(3次元)でとらえるか
そのとらえかた次第で、
はだしの本質に至れるか、
大脳が作り出した机上の空論で終わるかが決まる。
②へつづく