富士登山競走山頂ワラーチ完走して見えたもの
富士登山競走山頂コースを4時間1分35秒で完走した。
昨年5合目コースを裸足完走(2時間5分12秒)し山頂コース挑戦権を得た流れがあり、
今年も裸足で山頂コースを走るつもりの高い意識を持ってこの1年間調整してきた。
しかし事前の試走で、現在の裸足スキルでは、完走タイムを切れないと悟った。
完走するためにワラーチを履いて出走することに決めた。
そのことは、前回のエントリーで書いた。
そしてワラーチを履いて完走し、想定外に淡々平然としている自分に驚いた。
わずか数分でサブ4を逃したことに対してもあまりにクールな自分。
そしてなによりこの強い不全感。
これまで膨大な量の富士登山競走完走記やブログを読み漁って参考にしてきた。
そのどれもが強烈な熱狂的とも言える強い思い入れのある文章ばかりだった。
昨年裸足で五合目コースを完走した時の高揚感、全能感の記憶もあり、
富士登山競走山頂コースを制すれば、
必ずや昨年以上の達成感を得られるだろうと思い込んでいた。
それだけにこのあまりに冷淡な自分の反応は意外だった。
試走の時の方が比較にならないほど豊かで満ち足りた気分になっていた。
帰りの車中、バックミラーに映る富士山を見ながらレースを反芻しようとした。
しかし驚くほど何も覚えていなくそれは困難を極めた。
空虚、空っぽなのだ。
思えばあまりにもスムーズに無機質、機械的に走れた、
あっという間の4時間、あっという間のゴールだった。
いや、正確に言えば脳にはいろいろ残っていた。
感じたこと、考えていたこと、レース展開も。
しかしカラダには、何も残っていないのだ。
走った実感が全くもって乏しすぎるのだ。
この時ようやく悟った。
「ああ、この不全感は裸足で走らなかったからなんだ」と。
わずか厚さ数ミリ、重さ数十グラムのウレタン板が足裏に1枚挟まるだけで、
富士山を登ったという体験の内容が天と地ほどに激変してしまうということを。
保護され無傷な「2人の足裏の先生」が侮辱されて激怒していることを。
完走率が50%前後、誰もが完走できるわけではない、この難レースを完走して、
不全感などとは全くもって厚顔不遜、傲慢にもほどがあると言われるのは間違いない。
しかしこれが紛れもない裸足ランナーとしての本音なのだから仕方ない。
どうやら、裸足で完走するまで死んでも死に切れない定めにあるらしい。