ハセツネを裸足で走って見えたもの
あの衝撃的な一冊の本との出会いから5年。
今読んでいる本「BORN TO RUN 走るために生まれた」面白い。 http://t.co/Fln6AgIC
— man@11/20つくば (@man10000) 2011年11月4日
ぼくは、のめりこむように裸足で走り続けてきて、
とうとう、
70kmの山道を夜通し裸足で走り続けられるところまでたどり着いた。
ハセツネ裸足で完走しました。応援してくださった皆さん、レース中に声をかけて下さった全ての皆さんのおかげです。本当にありがとうございましたm(_ _)m
— man@11/20つくば (@man10000) 2016年10月9日
ハセツネを裸足で走った後の足の裏はこんな感じです。 https://t.co/60E6uMKEdQ
— man@11/20つくば (@man10000) 2016年10月11日
成長したという感覚はあまりない。
「失われた走り」を取り戻した、
取り返したんだ、というのが実感だ。
シューズがさえぎるのは痛みであって、衝撃ではない!痛みはわれわれに心地よい走りを教えてくれる!裸足になったその時から、きみの走り方は変わるはずだ。ベアフット ケン ボブ
— man@11/20つくば (@man10000) 2011年11月14日
人類がシューズという道具を発明し、依存するようなり、
足裏の痛みから解放されることとひきかえに失ってしまった、
こころの底から湧き上がるよろこびに満ちあふれた
永遠に走り続けられる全能感に包まれた「走り」
そいつを取り戻したんだと。
地の上を走り、地とともに走るかぎり、永遠に走ることができる。タラウマラ•インディアンのことわざ
— man@11/20つくば (@man10000) 2011年11月8日
ハセツネ参戦が決まった時、実は迷いがあった。
裸足で走るか、ワラーチを履いて走るのか。
長距離のトレイルを裸足で走った前例はほとんど聞いたことがなかった。
同様に裸足でハセツネを完走した人もこれまで誰一人いなかった。
「冬季」「単独」などより厳しい条件で初登攀する、つまり「誰も成功していない危険なテーマだから、やる」のが、長谷川恒男のめざす登山スタイルであった。
— man@11/20つくば (@man10000) 2016年9月30日
「アルピニストというのは、山を登ることによって自己表現できる人のことだと考えている」(長谷川恒男『生き抜くことは冒険だよ』)
— man@11/20つくば (@man10000) 2016年9月30日
「前人未踏 」の前に尻込みする弱気な自分のこころに、
長谷川恒夫氏のこの言葉は何度も何度も突き刺さってきた。
もはや「裸足で走る」ことはこの5年の間で完全に自己表現の一部となっていた。
そして富士登山競走をワラーチで完走したときのあの不全感を思い出していた。
もう安穏と履物を履いて楽しむランには戻れない、
その中からは決して「生の実感」を得られない、
そういう行き着くところまで、
自分は来てしまっている…
そんな諦観の中、
いつしかハセツネを裸足で走る覚悟は揺るぎないものとなっていった。
夏に裸足で甲斐駒黒戸尾根の往復を存分に楽しめた経験もこころの支えになっていた。
Just completed a 10.31 km ラン 完了 時間 04:49:53 平均ペース 28:06 /km 甲斐駒ケ岳黒戸尾根裸足バーチカルFKT 裸足, 3282 km #iSmoothRun
— man@11/20つくば (@man10000) 2016年8月13日
そこに功名心や自己顕示欲が全くなかったといえばウソになるだろう。
しかしそんなことよりも、むしろ失敗した時のバッシング、
他の裸足仲間に与えてしまう影響を危惧することのほうが大きかった。
「それみたことか。裸足なんかで走るからだ」
「裸足キケン」のそしりを受けることは絶対に避けなければならない事態だった。
いや、そんなことは実はどうでもよかった。
純粋に、裸足で大地とともにトレイルを走ることのたのしさ、よろこびへの期待感。
これが一番大きな原動力だった。
山登りは戦いじゃない。挑む行為でもない。強いて挙げるなら「期待感」なんだ。
— 山野井泰史_BOT (@y_yamanoi_BOT) 2016年10月19日
裸足で奥多摩の山々を全身全霊ひたすら走り続ける。
そんなことを想像するだけでひとりでゾクゾクワクワクしている自分がいた。
雨上がりのぬかるんだトレイルを奇声をあげながら走る。
時に滑って転んでドロドロになってケラケラ笑う。
また立ち上がって走り続ける。
一緒に長旅をともにしているランナーと話しをする。
その瞬間、瞬間をいとおしみ、没入することで、
しずかにしずかにエネルギーがたくわえられていく。
気が付くと日も暮れてあたりは真っ暗になり、そして霧が出てくる。
木立の隙間から時折月が見える。
ライトをつけてなお延々と走り続けるが、足元はよく見えない。
時計をもっていないから時間もよくわからない。
それでもトレイルを全身で感じながら、
一歩一歩、適切な接地となるように足をさばいて淡々と差し出していく。
裸足のナイトランは極限まで五感が研ぎ澄まされる。完全ではないライトの明かりの中、目の前のトレイルにどのように足を差し出すか瞬時に判断する。山全体の気配を感じながら、路面の硬軟、石の有無を直感を働かせ読み取っていく。
— man@11/20つくば (@man10000) 2016年10月10日
真っ暗の闇の中、ものすごいスピードで山を駆け降りて、
他のランナーを追い抜く、
上りでぐいぐいと他のランナーをパスして隊列の先頭を引っぱっていく、
自分でも信じられないほどの力がほとばしる瞬間が訪れるたびに、
レオナルド・ダビンチの
「足は人間工学上最高の傑作であり芸術作品でもある」
ということばを思い出していた。
そんな「裸足蜜月」な時間はずっとは続かず、
やがて下りが増え足裏の神経入力過多による限界が訪れ、
歩く時間が次第に長くなってきた。
そんな厳しい局面でも、足裏の感覚を研ぎ澄ませ、山のチカラを借りさえすれば、
集中を切らすことなく歩き続けることができた。
「自分の身体に対して感覚を研ぎ澄ますこと以上に官能的なことなんてある?官能的というのはロマンチックということでしょう?」BORN TO RUNより
— man@11/20つくば (@man10000) 2011年11月7日
長いような、一瞬だったような、
時空がねじれた不思議な一晩を山の中で過ごした。
そんな「官能の長旅」を終えて待っていたのは、
各方面からの怒涛の驚嘆と称賛の嵐だった。
そのたびに繰り返してきたが、
ダビンチの言葉を待つまでもなく、
すごいのは「人間の足」であり、
誰もがみんな、それぞれが持ち合わせたスピードの範囲内で、
「ハセツネを裸足で踏破できる」
少なくともそのポテンシャルを秘めているのだ。
それがなにより「すごい」のだと。
「シューズを履くのは、足にギプスをはめるようなものだ」ハートマン博士は言う。「脚にギプスをはめれば、六週間で筋肉組織の四十パーセントから六十パーセントは萎縮するだろう。足をシューズで覆ったときも、同様のことが起こる」(中略)足は戦いを生きがいとし、プレッシャーのもとで強くなる。
— man@11/20つくば (@man10000) 2011年11月14日
シューズの中で眠っているそのチカラを目覚めさせるのか。
そのままシューズの中で永遠に眠らせておくのか。
ハセツネ以降、
それを目覚めさせようとするランナーの胎動がたくさん聞こえてくるようになった。
人生は長いようで実は短い。
あたかもロングトレイルの様に。