「競走」と「競争」と「協走」と「共走」
裸足で「競走」はできても「競争」にはならない。
— man@5/15飯能ベアフットマラソン (@man10000) 2016年4月22日
「協走」になる。
それは「共走」しているからだ。
かすみがうらマラソン、裸足ランニングムーブメントが大盛況のうちに幕を閉じた。
大会が終わって1週間が経とうしているが、裸足ランナーの熱は一向に冷める気配がない。
いや、むしろヒートアップしているとさえ言える。
このフィーバーの背景には「共走」というキーワードが隠されている。
裸足の効用。合理性。
シューズの弊害。リスク。
裸足ランニングを正当化する理屈は枚挙に暇ない。
でもそんな御託はもう別にどうだっていい。
純粋に走っていてたのしい。
気分がいい。
最高だ。
わかっちゃったよ。
それが今回参加した80余名の裸足ランナーの偽らざるホンネだと思う。
裸足で走るおもしろさはたくさんある。
自分のカラダとの真摯な対話から自分のカラダをより深く信用できることだったり、
足裏からの情報の豊かさによって、より深く自然を感じられることだったり、
ランニングエコノミーが高まり、驚く程、足が速くなることだったり。
でも意外に裸足集団走の特殊な高揚感については、
裸足ランニング歴の長い裸足エキスパートでも知らないことが多い。
裸足ランナーはシャイで孤独な人が多い。裸足の集団走を知らずに過ごすことは、裸足ランニングの良さの50%を知らずに過ごすということでもある。
— man@4/17かすみがうらマラソン裸足 (@man10000) 2016年4月22日
これはトレイルランニングレースのペーサーとの「共走」とも似ている。
でも裸足ランニングの場合は「共走」の人数が増えれば増えるほど、
このご機嫌な気分は強力に増幅伝播する。
また、われわれの中に眠るDNAが、
裸足で群れなして大陸間を大移動した頃を思い出し疼く快感なのかもしれない。
なんだか 武士道や騎士道によって牧歌的だったいにしえの戦争が、兵器の高性能化に伴い、人間性を失っていったこととなにか通底する様な……
裸足でレースを走ると毎回不思議な気分になる。
レースなのに殺伐としない。
しずかな穏やかな気持になる。
自分はむかしから相当な負けず嫌いだったし、それは今も変わらない。
勝負事が好きになれなかった。
勝っても、負けても、いい気分になれなかった。
勝てばなんだか申し訳なく、
負けたらなんだかおもしろくない、
そんな気分になった。
自他の自尊感情にナーバスすぎるのかもしれない。
そんなことから白黒がはっきりつく勝負事に近寄らないようにしてきたし、
時には意図的に勝負からおりることすらあった。
ところが裸足で走るとそれが全く発動しないのだ。
飯能ベアフットマラソンでも毎年感じることなんだけど、裸足ランのレースは、レースはレースでも「競走」じゃなくて「共走」って感じが前面に出てくるんだよね。勝っても負けてもリスペクトだしラブだしピース。これが多幸感なんだろうけど、シューズではこの魔法が起こらない。ホント不思議。
— man@4/17かすみがうらマラソン裸足 (@man10000) 2016年4月2日
今回80名が抜きつ抜かれつ裸足でフルマラソンを走ったが、
そこに勝っておごったり、負けて卑屈にになったりする雰囲気は皆無だった。
それぞれがそれぞれを尊敬し、称え合う。
声をかけあって励ましあう。
フルマラソン3時間前後のランナーと、
5時間前後のランナーとが、
同じ土俵で表裏なくフラットに話ができるなんて普通(シューズを履いていては)はあり得ない。
でも裸足ランニングならそれができるのだ。
このどこまでも澄んで透きとおったすがすがしい気持ちは、
ニンゲンをとんでもなく高いレベルのナチュラルハイへと持ち上げる。
シューズを履いていては決して発動しない、
裸足でしか発動しないこのマジカルな恍惚。
そのことに、今回多くの人がいっぺんに気がついてしまった。
これがこの裸足革命の核心部分だ。
裸足になって集まって走るだけで、ニンゲンはハイになれる。
— man@4/17かすみがうらマラソン裸足 (@man10000) 2016年4月18日
ターゲットレース、かすみがうらマラソンが終わってもなお、
水曜日の夜、皇居に多数集まり裸足で走る動機は、
このナチュラルハイをおいて他に全く説明がつかない。
ニンゲンの根源的快感原則に基づいたこの勢いはもうだれにも止められない。
飯能ベアフットマラソンのエントリーは今年初めて300名を超える勢いだという。
裸足ランニングの聖地に巻き起こる昨年以上に増幅された恍惚とは。
想像を絶する。