裸足で走ること 生死の主導権を握ること
野生動物は病院でお産しない。
お母さんは自然に産み、赤ちゃんは自然に生まれてくる。
人間だって、つい一昔前まではそうだった。
自宅で、時には出先でそのまま産み、生まれてきていた。
それがいつの日からかほとんど全てのお産は自然なことではなく、
病院で人為的人工的に管理されて生まれることが当たり前の世の中になった。
そのことでこれまでなら救えなかったであろう危うい命を救えるようになった。
そのことと引き換えに、
私たちは生き物として大切な何かを失ってしまった。
そのことを国内最高齢90歳の現役助産師が教えてくれている。
長女のお産は自宅出産、長男は病院でのお産だった。
余計にこのお産の現状と、裸足ランニングの現状を重ねてみてしまうのかもしれない。
人間の本来的で自然な裸足で走るという行為を、
不必要にシューズという道具を介在させ人為的に管理してしまうことで、
大切な何かを忘れさせてしまうということにおいて。
人生の最初だけでなく、
人生最後の「看取り」の現状も、
やはり同じコンテクストがあるように思える。
自然に天寿を全うすべきところを、
延命のためだけの医療を介在させることで、
慣れ親しんだ自宅で親しい人たちに囲まれて人生の最期を迎えることができずに、
大切な何かを置き去りにしたまま、
病院で最期を迎える。
長年施設暮らしだった義父の最期を自宅で看取ったときに確信した。
人は生まれて、歩き、走り、そしていつしか死んでゆく。
どんなふうに生まれ、歩き、走り、死ぬのも自由、その人次第。
生の主導権を最初から最後まで手放さないことも、最初から最後まで全て明け渡すことも、すべてが。
裸足で走るということは本能であり、
人間としての尊厳を守る行為でもあるのだ。