裸足とワラーチの近くて遠い関係
ワラーチストには2種類いる。ワラーチをシューズの延長線で捉えるランナーと、裸足の延長線で捉えるランナーと。前者はクッションを貼り付け、紐をガチガチに締め踵着地で走る。後者は足指をはみ出させ、紐はゆるゆる、軽さと薄さと硬さを求める。同じワラーチでもその走りは180度異なる。
— man@7/24富士登山競走(山頂) (@man10000) 2015, 6月 18
ワラーチはシューズと裸足をつなぐかけ橋。
もっとも裸足に近い履物であり、
裸足だった人間が、なんらかの要請で作り出した道具の一つ。
それだけにすぐに裸足にもどっても違和感が少ないし、
シューズからいきなり裸足になるよりはギャップが少ない。
シューズからワラーチを履きはじめた人には、
自分もそうであったように、
いずれ、あるいは同時進行で裸足の所作(歩き、走り)を会得してほしいし、
そうあるべきだと思っている。
しかし、現実は違う。
シューズからワラーチに移行しても裸足からなにも学ばず、
そこでほとんどの人がワラーチに止まってしまう。
「裸足は難しい、無理だ」と。
裸足に難色を示すワラーチストは、
シューズテイストなワラーチを好み、
シューズライクな走りが可能な、
ワラーチを好む。
やがて、本末転倒にシューズランナーの様な種類の故障をしはじめる。
シューズ→ワラーチときた以上は、裸足に親しまなければ、
ワラーチを乗りこなすことは難しい。
ワラーチの元祖、メキシコの走る民、ララムリたちの走りの基礎が、
裸足にあることを考えれば、
道具だけ真似てみても駄目なのは、当然の道理である。
ワラーチの様に裸足で走ることはできないが、
裸足の様にワラーチで走ることはできる。
逆もまた真なりではない。
私はワラーチでフルマラソンをサブ3していい気になっていたが、
40km地点で裸足ランナーに抜かれ鼻をへし折られた。
そこから本格的に裸足で記録を狙いはじめたが、
ワラーチで培った走りのほとんどが、
裸足では ほとんど役に立たなかった。
いまだにワラーチでの記録を抜けないでいる。
そしてあらためて裸足の走りを確立してゆく必要があった。
走力には、無限走力と有限走力の2種類がある。 無限走力は気力体力の限界までダメージ皆無で走れる走り。 有限走力は一定の距離までは走れるが、それを越えると故障する走り。 大体有限走力の方が無限走力より速く走れる。 裸足ランニングは無限走力を鍛えることに他ならない。
— man@7/24富士登山競走(山頂) (@man10000) 2015, 6月 18
それまでもワラーチと時々は裸足で走っていたが、
以降ランニングの裸足:ワラーチ比率をどんどん上げて、
現在では走行距離のほとんどを裸足で走っている。
いまとなってはこの「無限走力」にしか関心はない。
走る速さには個人差がある。
それぞれの個々人のレベルではどうしても届かない速さの限界がある。
走りの質には個人差はない。
ある距離を気持ち良くケガせず走れればそれが最上で、誰でも鍛錬すれば手にすることができる。
裸足ランのおもしろさはそこにつきる。
裸足ランのおもしろさは、個々人のレベルで純粋に質だけを追求できるところにある。
速いからといって必ずしも走りの質が高いわけではない。
遅いからといって必ずしも走りの質が低いわけではない。
速いけど質の低い走りもあれば、遅いけど質の高い走りもある。
質の高さは強さでもある。
この違いを実感できる場がある。
それが毎年、裸足の聖地飯能で行われる、
飯能ベアフットマラソン、全日本裸足ラン選手権だ。
あそこでのリザルトはこの現実をひりひりと実感させてくれる。
速いだけでは勝てない。
強さも兼ね備えていないと勝てない。
しかも単なる勝負だけでは終わらない、武士道的な雰囲気がそこにはある。
飯能ベアフットマラソン、全日本裸足ラン選手権のあの稀有の雰囲気の良さは、裸足ランナーの参加者全員の残心、武士道に他ならない。
— man@7/24富士登山競走(山頂) (@man10000) 2015, 6月 20
レースなのにライバルの足裏具合を思いやり労う気持ち。勝って奢らず、負けて悔やまず、裸足だから人やモノのせいにできない自己責任。相対的な勝利は二の次、絶対的な、ダメージなく自分として上手く速く走れたかという尺度。裸足ランはスポーツより武道に親和性が高い。人間形成の道ですらある。
— man@7/24富士登山競走(山頂) (@man10000) 2015, 6月 20
来年、たくさんのワラーチストが裸足で聖地に集まることを夢想している。